フッサールの現象学から筆者(S)の考え方へと繋げたものを紹介します。お暇な方はお読みください○(注:長いですっ)
まず簡単にフッサールの現象学を紹介し、Sの考え、たまに友人の考えも交えながら書いていきたいと思います。*は引用しました印です。
フッサール
まず物自体がある。それを見る”私”がいる。花を見るとする。花自体と私が認識する花との二つがある。しかし物自体というのは誰も知ることができず、証明が不可能。フッサール以前の人々はこの二つ(物自体と認識)がまったく同一のものなのだろうかという「懐疑」を持っていた*。
さて、物自体と私がみた物との二つがあるということをいう二つを囲う(物自体を“物自体“と言う)世界があることがわかるだろうか。これを客観物とする。
フッサール以前の考え方ではまずはじめに世界という客観物が存在し、その中に人が生まれこの客観物としての世界を認識していくというものだった。これは伝統的認識論の考え方の順序*なのだが、フッサールはこの順序を反転させた。
フッサールは
認識する私の意識によって世界が存在していくといったのだ*。
詩織
ここで筆者が考えた絵の描き方と照らし合わせる。
枠から描き始めた絵があった。その絵はバランスをとることを考えて描くようになり、失敗したと感じる絵が描きあがった。しかしこれは「誰かになろうとしている」ため、失敗に感じたのだ。
↓筆者が枠から描いた絵である。

別の日に点から描き始めた絵があった。その絵は描く時にとても自由を感じた。点から広がっていくのだ。そして出来上がったものは自分の作品なのだと感じることができた。
↓筆者が点から描いた絵である。

これをフッサールの見方に当てはめると認識する私の意識が点から描き始めるということになる。枠から描き始めることが伝統的認識論である。
実はこのかたちは筆者の友人(358)の考え、「無意味の飽和と愛の関係」にも当てはまる。
無意味の飽和とは、
何かの基準や価値観があっての自分の価値と捉えるようなもの。*(
前回の記事に無意味の飽和について書いてある)
これが枠であり伝統的認識論でもある。
では愛とは?点から描き始めることと愛との繋がりがなんとなくわかる読者もいるかもしれないが、まずは筆者(以下Sと記す)の愛への気付きまでの実例を書こうと思う。
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Sは相手が喜ぶことが自分の喜びという考えを持っていた。相手の価値観で自分を評価していたのだ。
そのため自分の中に相手を映し、吸収した価値観からSは行動しそれが正しいと感じるようになっていた。
しかしある日そこにSを愛す存在が現れた。
彼らはSの状態がいいことが喜びだと言い、Sをとても大切に扱ってくれた。Sは自分の状態が良いことが彼らの喜びとなるので自分を大切にするようになった。(この時彼らに愛のかたちを見たのを覚えている。)自分は自分でいていいんだと楽になってきていた。
彼らから無意味の飽和の話を何度も聞いた。Sの過去を当てはめたものも聞いた。
無意味の飽和を聞いたときに自分の今までの無意味の飽和に気付き、その時にSの愛が開けたのだと確信した。つまり無意味の飽和は愛の餌となるのだ。
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ここで点から描き始めることに戻りたい。点から描くというのは自分という一点を見つめることと重ならないだろうか?自分という一点を見つめ受け入れるという作業がある一点から描き出すこと(受け入れと吐き出しが同じ許しの方向)とS個人は感覚的に重なる。
かたちの例を出そう。

無意味の飽和や相手を吸収することは凹のなかに引き込むような流れがある。
逆に一点から描き始めることは凸。認識する自分の意識が出っ張っている。
この凹が凸に変わること。
つまり無意味の飽和から愛が開けた時(愛の餌となった時)、反転が起こったのだと考える。

無意味の飽和の状態の時に考えていたことがある。
その一つに良いリスナー論がある。(これはSが勝手に考え出したものである。)
良いリスナー論とは…作り手が影響を受けたものはもちろん知っておくこと。ある曲を好きになった時期の自分の状態(精神状態)に近いであろう作り手の状態(精神状態)という一つの意識の仕方。選ぶ自分の状態も大事だということ。自分の価値が自分に繋がるものたちに価値を持たせるような相乗効果。可能ならば作り手に刺激を与えるようなものの提供。
無意味の飽和の時は相手の喜びが自分の喜びとなっていたため、相手のことを思っていた。しかし、自分の状態も大事であったり、自分の価値という視点を持っている。これは愛に気付いた時に少し感じ方が変わった。
誰かのための自分から自分があって相手があるという見方に移行されたように考える。
では無意味の飽和状態から抜け出せなくなった人間はどうなるのだろうか?最終的には
モノになるのではないだろうか?
例えば目の前でPCが動いている。もしかしたらPC自身は生きていると感じているかもしれない*。しかしモノである。人間もそうなってしまうのではないだろうか?一直線上に並んだ人間がどんどん同じ点で止まり重なり消えていくようで”死人”になっていく。
Sはどんな人も何処で止まるか、留まっているかの違いではないかと考える。例えば
デートDVについて話し合っているとする。デートDVは何故起こるのか?(貴方は何故だと思いますか?)ある人は理想像があるだとか愛情表現を知らないからなどと挙げたが、根本は自分を愛せていないからくるものではないだろうか?
止まった点、留まった点は沢山ある。
人はそれぞれに様々な意見を持つ。意見交換をした際、どちらかの意見が採用されるということもあると思う。その時の否定された意見は何処へいくのだろうか?消えてしまうのだろうか?Sは割合として残る(割合の変化)のではないかと考える。
例えば、割合として残るのならば地球平面説はなくならない。地球球体説の割合が大きくなっただけ。
どんな捉え方も対象にそう捉えられる要素が含まれていたから、その捉え方が生まれる。例に当てはめると地球に平面と捉える要素があったために平面という捉え方が生まれたことになる。
そうすればどんな意見にもそう捉えることもできるよねと言えるのではないかとSは考える。
おまけこの割合の変化は展開のひとつで、他に、付け足し、分割、時間の経過が挙げられる。今のところSが考える展開の種類はこの4種類である。例:12/18に13:17と書くことは付け足しと分割である。
これがなんの展開なのか、展開と呼んでいいものかも自信がない。
今は思考の図式に沿って問いを発し答えを出している。この図式(問いの構造)を断絶できたらと思っている。(この断絶は認識論的切断と呼ばれており、アルチュセールがそれについて述べている。)けれどこれも結局は思考の図式。そう考えると何がしたいのかわからなくなってくる。
―意識の底に残るように○…
参考文献
竹田青嗣 『【現象学から実存主義へ】に関する中心人物の問題意識・・・』
アルチュセール 『認識論的切断』
358(友人)
おつかれさまでした*